2022年10月7日金曜日

塾頭がどのような学習をしてきたか。



2013年に起業して、株式会社AwesomeLife(オーサムライフ)での多角的な事業を行っているのが、塾頭の田中です。


当方は、いろいろと学習にトライしてきたほうだと思います。高校は偏差値を言えるほどでもないところに行きました。しかし大学はなぜか医療資格を取得するところに入学し、人生で最大に学んだと言えます。

そこで、自分が学びたい領域の学位を取得するべく、放送大学の科目履修生となり、大学での単位と、放送大学の単位をあわせて、新たな分野の学士を取得しました。そうなるとさらに上を目指したくなるもので、そのころには運も味方して、大学院博士前期課程に入学し、卒業。数年あけて新設の日本では全く新しい学問を基盤とした大学院 博士後期課程に入学しました。

大学院に行きながら、各学校で教鞭をとり、教師として生きていく予定でしたが、人生何があるかわかりません。いまでは起業し会社経営をしている状況です。

しかし基本はヒューマンサイエンスやメディカル領域なので、高校生からやっていることは変わっていません。それぞれのタームで方向性と深度が違うといった感じだと思います。


もともとそれほど勉強ができるタイプではなかった自分が、なぜ学問を学ぶことが嫌ではなくなったかというと、「FLOW(フロー)」を見つけることができたからです。


 FLOWとは日本語で言う「悦に入る」というのににていて、自分で自分自身の感覚に酔いしれて楽しくなることを指します。最近では「ZONE(ゾーン)」も類義語で使われることと思います。要は熱中できる方法と時間を見つけられたことが良かったようです。


 小さい頃から、「承認欲求」がつよい子供でした。誰かに見てもらいたい、褒めてもらいたい、そんな幼少期を過ごしていたと思います。しかし早くに実母が他界し、無尽蔵に肯定してくれる唯一の対象がいなくなりました。

 そんな多感な時期を過ごし、唯一得意であった運動にのめり込むことになります。中学では3つ、高校では2つの部活動を掛け持ちしていました。どれも成績をそこそこ残せたのですが、その反動で勉強がほぼ手つかずだったわけです。

 テストは来週に迫っている。でも内容がぜんぜんわからない。どうにかして勉強しなきゃいけない。どうしたらいいんだと毎日悩んでいた記憶があります。ラッキーなことにふと気づいたことがありました。「家で勉強するのって無駄じゃね?」という安直なものです。

 学校で学んで、なぜ家でもう一度勉強しなくてはいけないのか、単純に考えて2倍の時間がかかっています。学校で先生が懇切丁寧に教えてくれているんだから、そこで理解すれば家で完全とは言わないまでも、やらなくていい時間が増えるはず!と思ってからは学校での過ごし方を工夫するようになりました。

 まず視力が弱かったので、席を変えてもらいました。黒板の文字が見えないと一気にやる気が無くなります。字が小さい先生には「大きく書いてほしい」ともいいました。

 そして黒板を写すことを少なくしました。

先生方が黒板に書いてあることは、生徒が持っている教科書が基盤です。当たり前ですが。そこに書いてあるんです。印字してあるんです。なぜ書いてあるものを再度書く必要があるのか?と思ったわけです。掲載されていない図式や相関図などは書きましたが、それ以外は教科書にチェックを入れる程度になりました。

 そして試験対策です。僕の学生時代は「オリジナル教材が教員としての力量だ」という風潮が少なからずともあって、今のように販売されているような資料が配られることは少なかったように思います。そういう資料自作教師は、「自分の言葉」が大好きですから、それを理解しなくてはいけません。テストもそのとおりに書かなくてはいけません。

 逆にカリキュラムを遵守するような教師は、教科書を基盤にしていれば十分です。授業も教科書をベースに進みます。この2グループに分けることだけでも、自分の中で随分と方向性を持つことができました。しかしながら、亜種が何パターンが出てきます。それは適時対応していくしかありません。完全に分類することはできないと早めに見切りをつけたことは良かったと思います。


 最終的な「この学習の成果はどこに出すのか?」となると、


「受験」などになってきます。受験とはまさに公平、公正で複数の教科書を基盤に構築されます。そうなんです。教科書を理解すれば受験は合格するんです。

 ここに気づいてからは早かったです。参考書をたくさん買ってさまざまな切り口から学びましたが、覚えることではなく理解することに意識をしました。この「理解すること」が自分に向いていたのは「書かなくて良い」ということです。書く作業は、脳から上肢に司令を送りながら、頭の中で漢字や文章構成を考える。そして全体を俯瞰しながら綺麗にまとめていく。。。この作業の中に覚えるや理解するがなかったんです。最悪のパターンは、自分のノートを覚えること。これはいつになっても終わりません。

 勉強は有限なので、死ぬまでにいつか、ならばいいですが、明日のテストには間に合いません。理解をするのに、「書く作業」は必須ではないのです。その代わり、独り言が多くなりました。「これは、〇〇が✗✗ということなんだるうか。あ、そうか。△も絡んでくるのか!」という一人会話形式をとっていました。この場合しゃべることで頭の中で文章を構築し、耳から自分の声を聞いて覚えるというものでした。よく学習室では「うるさい」と怒られたものです。このやり方も自己肯定感を強めたやり方なのかもしれません。「ほら、ここで勉強しているよ、見て!」ということかもしれません(笑)


 まだまだ開発してきた方略はありますが、後々に語るとして、比較的学習についてはさまざまな苦労や、挑戦をしてきたように思います。

 いまもどうやったら早く本を読めるのか、ビジネスに身を置く状況としては一分一秒を大切にする感覚を磨いています。

 今日はちょっとした自分史でした。お騒がせしました。

2022年10月6日木曜日

なにができれば、”学力”と言える?




学力の定義はとても難しいです。

試験の点数が高ければ、「学力」なのか。通知表の評価点が高ければ学力が高いと言えるのか。


どれも人が関わる以上、評価の尺度はまちまちになります。例であげるならば、評価の感度が低い評価者の場合には、対象者全員の評価点は低くなり、感度が高い評価者であれば評価点にばらつきが出ることも考えられます。

教職者はいつでも公平に考えて、評価していますが所詮人間です。いつでも平常な判断ができるとは限りません。


ここで、教育要綱を紐解くと、学力の併記もありますが、文部科学省が大事にしていることに「生きる力」という表記があります。

これまたかなり漠然としているのですが、ボーイスカウトみたいなところに参加してサバイバル力をつけることなのか、料理や洗濯などの日常生活動作が自立することなのか。かなり学校教育とは乖離しますよね。

ここで定義している「生きるチカラ」とは、条文を読みこなしていくと、どうも「自分で判断できる力」のことを指しているようです。「チカラ」というのもまた漠然としていて、判断が難しいですが、「本人が発揮できる機能」と言い換えましょう。

これらを合成すると「自らが判断し、自らが行動できる機能を有すること」と解釈することができるのです。


 我々の領域では「自立」と「自律」という言い換えもできます。

 前者は、「みずからで動くことができる」ことを指し、後者は「自らで適正な行動を選択することができる」ことになります。


 言葉とは、短く簡単に伝えるために、言葉を短縮したり、読者の常識に任せた書き方にしたり、実は解釈が違うことはよくあります。

 「平服でいらしてください」

 この言葉も大変困ります。ただし、TPOを考え、披露宴であればスーツやドレスを着るでしょうし、発表会などはジャケットを羽織るぐらいに留めるかもしれません。これも「平服」をTシャツと短パンに捉えない常識的解釈が存在します。

 学力も、端的に「学ぶ力」と解釈するのは、やや足りないと言うことになります。


 お子様が、自らを制約しながら、自分のゴールに向かって努力する行動が取れているか。これができていないとなると、どの学年になっても依存的になり、「〇〇がやってくれなかったから」などといった他力本願になってしまいます。

 自分ができないことは、その領域の有能な方に任せていいわけです。すべてが実施できる「万能な」人材はいないので、領域ごとに任せる人を変えて良いと思います。


自分で動き出せるお子様の成長を得るためには、それらをアシストする役割の人材が必要でしょう。


個別学習塾は、二人三脚でお子様と学習に取り組みます。これは依存度を上げるのではなく、助走を一緒に行い、ゆくゆくは手を離しても、走っていけることを目指しています。


集団指導と個別指導の違い

 


 集団指導・・・概ね10名程度を小集団として指導を行う。

 個別指導・・・最大3人までを1教師が対応する。


 これだけの違いのように思いますか?

 さらに集団指導のほうが、よい結果が得られると思いますか?


 当方は、最大で100名の生徒を対象に、講義並びに実技の授業を行ってきました。そこでりかいできたことは、40名を超えると、学生の名前と顔が一致しなくなることでした。特徴的な学生は理解できますが、目立たない学生に関しては、なかなか記憶に残りません。


 教職の稀有な能力として、顔を覚えることができるのです。100名を4学年みていましたが、ほぼ全員の顔と学年は覚えていました。名前は覚えられませんでしたが。


 ここは教員の立場として、考えてみましょう。


 教本の内容を教えるというのは、実は「能力はいらない」のです。特に集団の場合には、決まった情報を伝えればいいのですから、大きな問題はありません。講義の時間だけの対応で終われば、対応時間をぐっと圧縮することができるので、もっとも効率が良いと言えます。しかし・・・・この集団全員が「この内容を理解するまで」付き合うとなると、実は時間がいくらあっても足りなくなります。

 一つの項目を伝えるのに、理解が早い学生、理解が遅い学生がどうしても存在します。いくら成績順でグループを分けても同じです。この場合、講師側とすればより高いレベルのことを理解してほしいので、上位陣が楽しく理解できるレベルに引き上げることが多いです。結果はいわずもがな、下位陣は理解がおぼつかず、不毛な時間を過ごすことになります。終わったとに理解したいがために講師に質問に行きますが、やはり説明はレベルの高い状態を再度伝えてもらうことになり、理解に繋がりません。

 学生からの評価は「あの先生が言っていることは難しくて理解できない。面白くない」もしくは「えこひいきをしている」とまで言われる場合があります。

 こういう対応をされてしまう学生は「話しやすい教員」のもとに相談に行きます。この教員は自分の担当講義ではないのですが、丁寧に教えることになります。これで学校としてはダブルスタンダードな状況が提供されてしまいます。本担当の先生の話は聞かず、仲のいい先生の話を聞くことになる。当然時間は数倍に渡って必要となります。最終的には習熟が間に合わないということになります。


 という、事例を毎年のように見てきました。ここで集団学習の限界を感じたわけです。どうも集団学習とは、理解を促す学習ではなく、「道筋を示すもの」だということです。Aという問題と解くには、Bという知識をもって、Cという解釈して、Dという判断をします。という思考の流れの例を伝えて、自分ならではどのような理解をするのか、自主学習で学ばねばなりません。実は集団学習に向いている学生というのは「自分で自分の強みを理解して、自ら学べる」ことが必要最低限の能力となります。

 この能力、学生全員が持っていてほしいですよね。しかし、持っているとすれば、学習塾にいかなくても学力があがるのではないでしょうか。


 成績が上がらない


 お子さんの課題はここにあるとおもいます。

 一人ではどうしても成績が上がらない = 一人での勉強方法がなかなか確立していない ということになります。

 そのような状況下のお子さんが集団指導で結果が出るかは、火を見るよりも明らかです。


 みんなと一緒に。〇〇ちゃんと同じところに。あそこにいって学力が上がっている。


 学力は、皆が同じように伸びると思われていますか?

 そんな事はほぼありません。一人ずつ別々に変化していきます。そしてタイミングよくいい課題を提示しなければ、伸びるものも伸びないのです。

 そのようなきめ細やかな対応ができるのは、個別学習しか無いのです。お子さんの足取りを見て、少しずつ前に進めて、時には手を話してみて一人で歩けることを見てみたり、最終的には卒業して一人で走り出してくれるまでの伴走者が教育支援者の役割だと思っています。


 もし家族が塾に行きたいといったら、間違いなく個別学習塾に通わせます。同じ投資をするのにもリターンの可能性が高いものに参加したいと思っています。隣の〇〇さんと同じだからという理由で投資をするという判断は僕にはありません。
 お子様に合わせた判断を提供してあげてください。

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