2022年10月6日木曜日

なにができれば、”学力”と言える?




学力の定義はとても難しいです。

試験の点数が高ければ、「学力」なのか。通知表の評価点が高ければ学力が高いと言えるのか。


どれも人が関わる以上、評価の尺度はまちまちになります。例であげるならば、評価の感度が低い評価者の場合には、対象者全員の評価点は低くなり、感度が高い評価者であれば評価点にばらつきが出ることも考えられます。

教職者はいつでも公平に考えて、評価していますが所詮人間です。いつでも平常な判断ができるとは限りません。


ここで、教育要綱を紐解くと、学力の併記もありますが、文部科学省が大事にしていることに「生きる力」という表記があります。

これまたかなり漠然としているのですが、ボーイスカウトみたいなところに参加してサバイバル力をつけることなのか、料理や洗濯などの日常生活動作が自立することなのか。かなり学校教育とは乖離しますよね。

ここで定義している「生きるチカラ」とは、条文を読みこなしていくと、どうも「自分で判断できる力」のことを指しているようです。「チカラ」というのもまた漠然としていて、判断が難しいですが、「本人が発揮できる機能」と言い換えましょう。

これらを合成すると「自らが判断し、自らが行動できる機能を有すること」と解釈することができるのです。


 我々の領域では「自立」と「自律」という言い換えもできます。

 前者は、「みずからで動くことができる」ことを指し、後者は「自らで適正な行動を選択することができる」ことになります。


 言葉とは、短く簡単に伝えるために、言葉を短縮したり、読者の常識に任せた書き方にしたり、実は解釈が違うことはよくあります。

 「平服でいらしてください」

 この言葉も大変困ります。ただし、TPOを考え、披露宴であればスーツやドレスを着るでしょうし、発表会などはジャケットを羽織るぐらいに留めるかもしれません。これも「平服」をTシャツと短パンに捉えない常識的解釈が存在します。

 学力も、端的に「学ぶ力」と解釈するのは、やや足りないと言うことになります。


 お子様が、自らを制約しながら、自分のゴールに向かって努力する行動が取れているか。これができていないとなると、どの学年になっても依存的になり、「〇〇がやってくれなかったから」などといった他力本願になってしまいます。

 自分ができないことは、その領域の有能な方に任せていいわけです。すべてが実施できる「万能な」人材はいないので、領域ごとに任せる人を変えて良いと思います。


自分で動き出せるお子様の成長を得るためには、それらをアシストする役割の人材が必要でしょう。


個別学習塾は、二人三脚でお子様と学習に取り組みます。これは依存度を上げるのではなく、助走を一緒に行い、ゆくゆくは手を離しても、走っていけることを目指しています。


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